元 外資系広告代理店 営業マンのつぶやき

ちょっと早めの定年退職。さてとこれから何をやろうかな。

Vol. 10 - 生きるチカラと感謝の気持ち。

タイトルから想像される内容は、なにかものすごいことのように感じるかもしれないが、人間のハナシではなく虫のハナシなのである。虫といっても夏限定の蝉のハナシ。セミは一週間の命と昔から言われている。八日目の蝉(主演:井上真央/共演:永作博美)という映画があったが、内容はともかくまさに八日目くらいのセミと出会ったことを書いてみようと思う。学術的には蝉はどうやら20日~40日くらい生きるとも言われているらしいが、感覚的なハナシだがまぁいいとこ2週間くらいだろうと思う。

 

セミは寿命が近づいてくると平衡感覚をなくし、地面に仰向けになりそのまま一生を終える場合が多い。私はそういうセミを見つけるとだいたい左手の人差し指をセミのおなかに近づけてみる。するとセミは人差し指にガッチリと絡みつく。その後、右手で左手人差し指から離し空へ投げてみるとセミは元気よくはばたきながらどこかへ飛んでいってしまう。おそらく最後に近い飛翔だと思われる。こういうことを夏の終わりによくやる。虫をさわるなんでキモイとか、ちょっと変わっているとか人に言われるがまぁ気にしない。

 

先日、夜の8時ごろだっただろうかお仕事から帰宅したとき、わが家の玄関前に仰向けになったアブラゼミがいた。いつものように捕まえてみたがジジジジッと一瞬!鳴いたのでオスのセミであることが判明。そしてこの日は酷暑がひと段落し、雨が降っており涼しすぎる夜を迎えていた。

 

玄関前で仰向け!なぜか私はこのセミに親近感が沸き、妻に対して「涼しい夜にこのままにしておけば死んでしまう」と伝え、家の中で天寿をまっとうするまで保護ってやつをやってみようと試みた。もちろん家の中にはアブラゼミが好むサクラの木やケヤキ、モミの木といった大木があるはずもなく、保護したセミには悪いがそして好みではないことはわかっていたがパキラの木に近づけてみた。セミはピタッとパキラの幹にくっつきじっとしている。このまま死ぬのかなぁと思っていた。

 

ところが一時間くらい経ったころだっただろうか、セミは自力でパキラの木を登り始めたではないか。わが家のパキラの木は屋内だが2mほどある。最上部までではなかったが途中まで登ってひと休みをしているようだった。葉っぱの影からはセミと目が合い私たちのほうをじっと見ているようだった。

 

その後、さらに30分くらいだろうか、なんとセミが鳴き始めたのだった。屋内でのセミの鳴き声は強烈にうるさい。さすがにびっくりしたがさらに約20分間も鳴き続けた。いやはや元気になったのだと喜んだが、でも今晩だけの命かもなぁと思っていた。その証拠に20分間鳴き続けたあとはピタッと静かになり動かなくなった。明日の朝には床に落ちているかもと思い、その日は居間の電気を消して就寝した。

 

翌朝、セミはどうなっているのかな?とパキラの木を見に行くと昨晩と姿勢は変わらずじっとしている。私も勤めに出かける時間だったので妻に少し気にしてみておくようにと伝え家を出た。10時半ごろだったか妻から電話をもらい、セミが鳴き始めた!そしてパキラの木から窓ガラスのほうへバタバタと飛んでいる!どうしよう!!!との一報。これには驚いた!天寿をまっとうどころか、なんという生命力だ。今を一所懸命に生きているんだ!と感じ、ちょっと大変だけどセミをパキラの木に戻し、木ごとベランダに出して様子を見てくれないかと妻に頼んだ。

 

妻の話によるとベランダに出してからさらに一時間くらいだったらしいが、セミは鳴かずパキラの木を登ったり下ったりしてたそうだ。さすがに妻もずっと見ているわけにはいかず、家事を始め20分後くらいに見に行ったところ、どれだけ探してもセミは見当たらず、ベランダやその周りにも姿はなかったそうだ。妻曰く、「家事をしている間に飛び立ったんだと思う」とのこと。そりゃぁそうだ、いなけりゃ飛び立ったかカラスかスズメに食われたかだ。でもパキラの木は複雑に枝と葉が絡み合っているし、鳥たちが来てバタバタした気配もなかったし、鳥の捕食時にパキラの枝を折るなどのあわただしい行為も、捕食されたときのセミの鳴き声も聞かなかったとのこと。故に飛び立ったのではという推測だ。

 

まぁ仕方がない。でも勝手に保護と言わせてもらったが、ひと晩だけ家の中にいたセミがいなくなってしまったことは私も妻も少し寂しい気持ちにもなった。しかし同時に仰向けになって死を待つだけだったオスのセミが元気になり再び飛び立ったと考えるならば、これほどうれしいことはないではないか。さらに前述の通り、なんという生命力なのだろう!八日目の蝉にはならず、命の限り飛びそして鳴いてやる!という漢気すら感じるではないか。あえて彼と呼ぶが、彼はファイターだと。そして小さな体でひと夏しか生きられない儚い命だが、我々人間に生きる勇気と前向きに進め!という力強いメッセージを残してくれたような気がしてさみしさもあったがそれ以上に嬉しかったことも事実だった。2021年夏の終わりにちょっと清々しい気持ちになれたことを彼に感謝したいな。

 

しかしこのハナシには後日談がある。一週間ほど続いた雨も彼を保護し夜には止み、彼が飛び立ったた日と翌日は朝から夏の暑さが戻ってきていた。私はというと仕事のため朝、普通に家を出て普通に仕事をして夜に帰宅。その後、妻の話によると午前中、わが家の壁に一匹のアブラゼミがとまり、けたたましく鳴きだしたそうだ。しかもしばらくの間、時間にして一時間近くも鳴いていたとのこと。妻曰く、きっと彼があいさつに来てくれたんだよ、彼にしてみれば寒い夜「ひと晩かくまってくれてありがとう!僕は今夏で終わりだけど子孫たちが来年も遊びにくるからね、よろしく!」とおもいっきり言っていたように感じたとのこと。俺も激しく同感!思いもよらぬことでセミから前へ進むチカラ、生きるチカラ、強いチカラをもらえた2021年の夏。そしてその想いに感謝の気持ちを持った我々。本当に嬉しかったなぁ。来年も会おうな!と我々からも暑くも秋の気配を感じる空に向かって心の中で唱えてみた。★最後までご一読いただきありがとうございました。

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8月の夏空。長野県大町市にて。

Vol. 9 - 自分の行為・行動をしっかり見直してほしい

今回も長文&ちょいとネガティヴストーリーになっちゃうかもしれないハナシ。自分の行為・行動をもう少し考えたほうがいいんじゃぁないというある種、余計なお世話的なオハナシ。

 

人は見かけによらないとは前回までのブログで書かせていただいたが、その意味はほぼ100%良い意味に於いて「見かけによらない」であって、時を追うごとに悪い印象となってしまうことはあまりないと思う。なぜなら人は人を見極める嗅覚みたいなものを本能として備えており、初めて出会った人と「もしかして知り合いになってはまずいかも!?」と直感で感じてしまう防衛本能の一種なのかもしれない。でもそうはいっても人同士のつながりだ、会うべくして会う人もいれば世間的お付き合いせねばならない人もいる。

 

そして知り合った経緯などの違いはあっても、第一印象の大切さからその後のお付き合いなどによって「見かけによらない」すばらしい才能を持った人だとか、デキた人だとか好感が持てる人だったりする。そこまでいかなくても人としてお互い認め合い、一般的なお付き合いや知り合い程度に留める場合ももちろんある。今回お話をする人はそういった感覚や感情になりえない「いやぁ~この人、チョイと人としてどうなの」という失礼ながら成り下がってしまった事例を紹介。もちろんこのハナシは「私の主観」であって、他の方々がもしその人に会ったならば素晴らしい!と言って良きお付き合いになる可能性も充分にあることを心に留めておいてほしい。

 

その人=仮称「Aさん」としておこう。2019年5月と2020年1月にリアルにてお会いした。そもそもは知人の紹介であり、お会いした時は私の妻と知人家族を含めデパートで実施しているちょっとしたイベント会場での紹介だった。イベントはAさんが主催しており、当該イベントそのものは充分に楽しめた。そしてAさんとそのマネジャーさんからFacebook(FB)の友だち申請が来たのがイベント会場でお会いしたのち一週間程度だっただろうか。知人の紹介ということもありFBの友だち申請は快諾。

 

リアルでお会いし且つ、FB上で友だちになれば一応はAさんのFB発信内容を拝読するのが筋だろう。Aさんは早寝早起きそしていつも第一報を早朝に投稿していた。最初のうちはフツー読んでいたがあるときからどうもおかしい?というか変?だなと思い始めてきた。投稿内容は毎朝、お決まりの件から始まるのは良いのだが、日々いろいろな人の格言や自身で考えた格言チックなものを投稿していた。格言は引用する人の心を表し、こうありたいあるいはこうなりたいという願望を格言を借りて表すともいう。やがてそれは座右の銘になったりもするそうだ。

 

しかしAさん、引用する格言や自身の格言チックなことが投稿日によってさまざまであり、よくいえば広く世界を見ているともいえるが、悪くいえば支離滅裂。結局なにが言いたいのか、もっと言うとどう生きてゆきたいのかといった自身の信条みたいなものがまったく伝わってこない投稿ということに気がづいた。ぶっちゃけ、拝読していて「痛い」のだ。人は人であってAさんがどう考えようが、どう生きようが勝手ではあるが、これはSNS活用の悪い例だと感じた。Aさんの友だちは4,500人以上、そしてFB公開範囲の制限は設定していない。つまり日本語さえ理解できれば世界中の人々が閲読可能というスタンス。それでこの投稿と発信はね~だろうという内容。

 

まぁ格言を多用するのは一歩ひいて良しとしても、4,500人以上の友だちプラス閲覧制限なしの人々への発信として個人的にAさんどうなの?という内容がいくつもあった。たとえばコロナ禍でのマスクについて。「コロナなんて怖くなぁ~い」「わたしはマスクはしない」「夏にマスクなんておかしい」「外でマスクはしない」など国の感染対策を批判するような投稿(詳細は割愛)が続き、マスクをしている人々をけなすような投稿も目立っていた。そして極めつけの「完全アウト」投稿がいくつかあった。そのうちの2つを記載する。

 

まずひとつめ、Aさんは実は東京在住ではなく地方在住の人だ。東京が3回目の緊急事態宣言下、東京で商売をすべくマネジャーと一緒に東京へ乗り込み一定期間中、マネジャーと入れ替わりながら地方と東京を往復しイベントを実施したのだ。このイベントは大規模ではなく小さな展示即売会ゆえ、会場側の許可が出れば実施可能なレベル。Aさんが持つそれなりの主旨があるだろうし且つ、それを貫徹するための実施ならわからないでもないが、でもこのタイミング普通はダメでしょう。

 

そして一般の人がこの投稿を拝読したならば怒り心頭となるような投稿だったなぁ。もちろん私も怒りが込み上げてきたことは事実だ。なんと展示即売会のことよりも表参道などの繁華街をマスクなしで闊歩している写真や、「緊急事態宣言中なのにトウキョウ人だらけじゃん!モンダイなし!」的な投稿がされていた。Aさんは年齢だけでいうならば立派過ぎる人だ。でも人としてはもしかしたら最低のことをしているんじゃないかと思えてきた。SNS投稿はその人の「一部分」を切り取った投稿であることは承知しているが、逆にいえばその「一部分」でその人を判断してしまうことになるという危険もある。その証拠に、マスクなし繁華街闊歩プラス問題ないっしょ!投稿はそれこそ投稿におおいに問題ありと感じてしまった。

 

そしてもうひとつ。いわゆるエッセンシャルワーカーを完全にバカにしている投稿だった。Aさんはそのつもりはないのだろうが読み手はそうは取らない。少なくとも私は本当に失礼な投稿だと感じた。投稿内容を要約すると、「わたし東京へ行きます、なぜならエッセンシャルワーカーだから。エッセンシャルワーカーは移動していいんだよね。ところでエッセンシャルワーカーってなに?」という投稿。これはさすがにアウトでしょう。Aさんはエッセンシャルワーカーでもないし、エッセンシャルワーカーの意味を知っていてわざとこのような文面を使ったのだ。社会インフラを支えるひとたち、医療従事者はもちろんだがそれに関連する方々、日々のゴミを収集してくれる方々、いずれも仕事といってしまえばそれまでかもしれないけれどこの人たちがいなければ社会は成り立たないことはAさんだって充分に理解しているはずだ。なのにどうしてこのようなことが書けるのか理解に苦しむ。

 

いつだかのAさんの投稿に「オリンピックで無観客なんてありえない!人それぞれの責任で観戦に行けばいい」と投稿していた。それに対してある人が「医療従事者に話を聞いてみたらどうかあるいは取材してみたらどうか、またAさんの持つ製品を医療従事者に寄付してみたらどうか、彼らの心の支えになるはず。近くに感染者かいないから観戦に行けばいいなんて言えるのだ」と正当なコメントを投稿していた。Aさんはそれに対して「人それぞれ」と返信していたがある人は「人はそれぞれでもウィルスはそれぞれじゃぁないので間違いなく感染する」と再返信し、Aさんは「はい」とだけ返信していた。残念ながらAさんがエッセンシャルワーカー宛に寄付した記録は私が知る限りはない。

 

今回の私の投稿、Aさん批判と愚痴に終わってしまったがそれでもAさんから学ぶことは多かった。たとえば「人の振り見て我が振り直せ」「SNSの投稿手法」「人としての行動規範」など反面教師的なことだ。Aさんは多くの活動を積極的に行いメディアに取りあげられることもある人だ。しかしどんなに優秀でもどんなに積極的活動をしていても、どんなにメディアに露出されようと、人としてのあるまじき行動はその人の人間的価値を下げてしまう。おそらくAさんもそれはわかっているのかもしれない。が、実行動に移せないのか、あえてそれをやっているのか、私にはわからない。やっかいなのはAさん信者の方々はマスクをしないことや大勢での飲み会実施に賛同しちゃっていることだ。前述の通り、ジブンあるいは身近な人がコロナ感染していないからそんなことを投稿できるのだと思う。

 

Aさんの言う「人それぞれ」も一理あるけれど、このパンデミックに限っては「人それぞれ」は通用せず、自分でできる最低限の感染対策は絶対に行うべきだし、不用意な発言や行動は身を亡ぼすことを肝に命じておいたほうがよいだろう。

 

最後になるが、Aさんを紹介してくれた知人との義理もあったので約2年間、AさんとのFBでの友だちは続けていたが、さすがにわたくし的にはバツが付いたエッセンシャルワーカーの投稿を最後にキッパリと友だち関係を削除した。今後、Aさんと会うことも話すことも、このように長々と記載することもないだろう。昨日、東京の感染者が5,700人を突破!全国感染者数合計も20,000人越え。このような状況でもAさんは東京で展示即売会を実施する意思はあるのだろうか。自分の行為・行動をAさんもしっかり見直してほしいと思った。★最後までご一読いただきありがとうございました。

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国道361号線から南アルプス遠望。

 

Vol. 8 - のたうちまわった2020年とその先にあったものとは - その②

みなさま、こんにちは!

かなりの長文ご容赦ください。タイトル通り前回からの続きです。セミナーにめでたく合格し、私の心は弾んでいた。なぜなら2020年12月時点では当時の業務委託契約でのお仕事とのマッチングもあり「セカンドキャリアを考える」とのことが主目的のセミナーだったのだが、勘違いもあり「再就職あっせん」もしてくれるのかなぁと甘い期待なんか持っちゃったりしていたからだ。

 

実際のセミナーでは再就職あっせんは一切やっておらず、それよりも55歳以上になり定年を間近にひかえた方々、しっかりと現実を見て且つ、セカンドキャリアを考えてゆきなさい!という超現実的なセミナーだったよ。私の再就職あっせんの夢は第一回目にしてあえなく撃沈。でも気持ちを切り替えて、自分の年齢(59歳と2ヶ月)と今までのキャリアとその棚卸、併せてジブンの得意なことの発見と好きなことを仕事にしてみる可能性の検証。さらには老後の資産問題やお金の有効活用、自身を客観的に見ることができる心理テスト受検など盛り沢山!とても再就職あっせんを期待するどころか、単純な私は独立あるいは起業を考える思考にいつのまにかシフティングしていたのだ。

 

いやぁ本当に単純としか言いようがなく53歳くらいからかなぁ、なんとなく考えていた事業を本格化すべく企画を書いたり、それをコンサルに見せたりと進めてみた。まぁ独立の事業計画は3つの方向性があったのだけど、最終的に3つとも厳しい状況であることが判明し今すぐ動くことは危険と判断したことも事実。ちょっと残念だったけどね~。でも大金をぶっこんで失敗したらヤバいし、コンサルの方々も大きな賭けより小さなスタートを考えたほうがよいとのご意見。たしかにそれもそうだなと考え始めた私がいた。

 

さてこのセミナーは2クラスあって平日夜間と土曜日昼間だ。私は平日夜間で受講したのだが、各クラスとも25名限定。つまりこのセミナー受講者の合計は50名。ここであくまでも私見だが驚いたことにななななんと!会社都合・自己都合を含め、いわゆる企業に正規採用をされていないのは私ともう一名の2名だけであった。残り48名はほぼ全員、大手の名の通った企業に属しているという事実だった。正直、それを知ったときはなんで???大手企業に勤めていれば再雇用もされるしモンダイないっしょ!と思ったこともあった。ただ受講回数を重ねる度に、大手企業勤めの方々でもそれぞれ考えがあることが理解できた。セミナーは2021年3月で終了。でも出会った方々は、今や真の仲間と言ってもよいのではと思えるようになってきた。

 

つまり人には事情ってもんがあるし、それ以上に人は見かけによらないってことだ。企業勤務、業務委託あるいは未就職とそれぞれだけど、思うことや今までやって来たキャリアなど当時の私の立場でも大いに勉強になったし、素直に感動したことも多々あったなぁ。

 

そしてせっかく集まった者同士、ネットワークを構築せねば!と考え、初回講義終了後、セミナー側が用意していたネット上の共同掲示板にLINEでのつながりを自ら買って出た。結果50名中、12月の時点で私も含めて4名が集まった。三人(以上)寄れば文殊の知恵!とばかりに年明け早々にZOOMで初回ミーティングを実施、議題は私の起業についてのディスカッションとさせてもらった。正直な意見をもらい、3つ考えていた起業はあえなく却下!金が大量にあるのなら話は別だが、最初から大きな金額を借金してスタートすることは危険すぎると親身になってアドヴァイスをいただき、このあと1ヶ月後にはすぐに動かないことにしたジブンがそこにいた。

 

その後、毎週のセミナー受講の休憩時間や終了後には多くの方々から声がけをいただき、現在は2コース合計50名中18名もの方々がグループLINEでつながり今でも多くの情報交換や月一回のオンラインミーティングでプレゼンしたりと盛り上がっている。

 

セミナーに参加し、グループLINEを開設し新しい同年代の仲間ができ、将来を語り合える仲間であることが私にとっては嬉しく勉強にもなり、はじめは企業人のくせに!と思っていたけれどその人たちのキャリアと知識と人脈に感動し、小さな井の中に入っていた自分が情けなくなってしまったよ。

 

このころから前述の通り、人は見かけによらないことをしっかりと認識しジブンをさらけ出し、今まで以上に前向き&多くのことに挑戦できるようになってきた。特に人脈と新たな経験はすさまじく、わずか2ヶ月半で外資系広告代理店にいたころの50倍くらいの経験スキルが身に付いた感じがした。業務委託でのお仕事も含めれば200倍くらいだろうか、今まで外資系広告代理店に20年勤めていた自分はなんだったんだ!と驚きの成長だった。そしてここで知り合った仲間はたぶん、死ぬまでかけがえのない仲間であることを手前勝手ながら確信したのだった。

 

そして2020年9月以降にはじめたハローワーク通いもさらに積極的になり、受検し落ちても、落ちてもさらに受検し続けた。やはり経験はモノをいうのは確かだった。特に職務経歴書のリバイズには磨きがかかった。キャリコンのアドヴァイスもあり且つ、記載の要約ポイントも呑み込めてきたし38年間のサラリーマン人生をA4用紙2枚でしっかり完結できるようになっていた。手ごたえってやつを感じ、もしかしたらうまくいくかも!と思い始めてきた。

 

しかし59歳での再就職は手ごたえを感じ始めたとしてもそんなに甘くはない。採用側と面接官は年齢不問と言いながらもまずは年齢という仕切りを変な色メガネでみてくるのでたまったものではないが、それでも受検の経験値が私自身を助けてくれていた。併せてとても大変だったのが筆記試験と小論文だ。もちろん面接だけのところもあるが官公庁は必ずと言ってよいほど、これらが待ち受けていた。特に筆記は私の頭を悩ませた。現役大学生が就職試験で試されるSPI-2の筆記やこれに準ずる一般常識試験だ。さらに小論文に至っては指定の原稿用紙に1,500文字程度を手書きで書く!という今どき常識外れの試験なんかもあったよ。

 

しかたがねぇ受検する以上、避けては通れない道だ。2020年10月~2021年1月下旬まで勉強ってやつをやってみた。参考書と問題集を合計2冊アマゾンで購入、わからないところや補完する部分はYouTubeを閲覧しながら勉強した。ところがどうしたことだろう、中学・高校・大学とたいした勉強もせずのほほんと過ごしていた私だが、完璧ではないにせよ知識ってやつはそれなりに頭の中に残っているもんだなぁとびっくりした。YouTube先生と自身の記憶、そして数学が得意だった妻の助けもあって意外にもそれなりに楽しかった4ヶ月間だったかなぁ。そして勉強中にもいくつもの受検をして場慣れも手に入れ、ますますの手ごたえってヤツを感じ取った。

 

カッコイイ言いかたをすれば、やれるべきことはすべてやったという感じだった。あとはできることはいわゆる「神頼み」だ。近所の八幡や神社・お地蔵様・明治神宮箱根神社深大寺そして長野県大町市にある仁科仁明宮まで結構な数の「神頼み」をやってみた。私は宗教論者でも運命論者でもないが「やるべきことをすべてやり、自分ではどうにもならない時、なにかわからないけれど未知のチカラに頼ることは悪くはない」と思っている。

 

その甲斐があってかどうかわからないが2021年2月下旬にとある公務員試験に合格し、晴れて4月から公務員として勤めるようになったのだ。合格し職場は面接時から感じていた公務員試験独特の上から目線系が一切なく、面接官とのケミストリーみたいなものが合ったというか、ああ!この人たちとだったら一緒に仕事をしてゆけるかも!と強く思ったことも合格した要素のひとつだったのかもと思っている。

 

これでせめて定年の60歳までは勤め人でいたいという希望が叶ったわけだ。新しい職場、新しい人間関係、新しい経験と勤め始めてからまだ4.5ヶ月であるが充実している日々を送っている。しかしこれにあぐらをかくわけにはいかず、現在の職場でも常に勉強!常に前向き!という気持ちを持って進んでいるつもりだ。

 

2021年10月で60歳を迎え、この先どうするかはわからない。前回と今回のブログのテーマでもある「のたうちまわった2020年とその先にあったものとは」についてだが、ひとつ言えることは「人は人の役に立つために存在しているんだ!」ということをこの一年半でおおいに学んだ私がいる。であれば現職こそ最適な職場だと感じているし現職を通じて微力ながら人の役に立ち、少しでもよき世の中を作るお手伝いができればと考えている。

 

人の持つチカラは無限大だと感じる。やってやれないことはないし、夢も叶えることもできると今の私は信じている。わがままや文句や愚痴、人の悪口もいいけど、そんなことをほざいているヒマがあるならなにかひとつでもよいし、どんな小さなことでもよいので人の役に立つことにチャレンジしてみてはどうだろうか。積極的に、前向きに動こうと努力することは不器用に見えるかもしれないけれど、必ず勇気と自信が身に付くはずだ。さらに人の役に立つことをしていると、100人中ひとりだけでもその人の行動を見ていてくれる人は必ずいるもので結果として、人は人の心を動かすことができるのではと思っている。ためしにちょっとやってみるのも悪くはないぞ。

 

そして4月からの新しいお仕事に就けたことへの御礼として、「神頼み」した神宮・神社・八幡・お地蔵様に御礼参りをしている。残るは漢気一本!の元三大師の深大寺だけになった。今夏中に御礼参りをするつもりだ。今思えば、未知のチカラは私のことを見ていてくれたような気がする、いやそう思いたいな。これからも多くの問題や壁が私の前に立ちはだかるだろう。でも自分を信じて前へ進み、問題解決と同時に人の役に立つ努力をしてゆきたいと考えている。なぜならそれが人の役目だと私は思っているからだ。というのが前回と今回に於けるタイトルの答えかな。★最後までご一読いただきありがとうございました。

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国道292号線 国道最高地点碑(群馬県)から芳ヶ原湿原を望む。

Vol. 7 - のたうちまわった2020年とその先にあったものとは - その①

みなさま、こんにちは!このブログの更新も年始以来のご無沙汰でございます。間隔が空きすぎてしまったことお詫びいたします。

 

さて今回は気持ちも新たに(って何回、同じ仕切りをしているのかね)私の近況を伝えてみようと思います。まずは状況整理。

 

■2019年11月〜

1.58歳にして会社都合による退職勧告。

2.転職サイト7社登録〜50社以上へ応募。

3.すべて年齢制限で採用されず。

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■2020年1月〜

1.年明け後も引き続き就活。

2.それでも奇跡的に業界では名の通った企業5社からのオファ。

3.しかし世間ではコロナ禍が本格化。採用は無期延期!

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■2020年3月〜

1.再就職活動の善戦虚しく3月に会社都合による退職。

2.4月から業務委託という形で某企業になんとかもぐりこめた。

3.お給料は完全出来高制で業務スタート。

4.同時に前職のつながりで個人として企業コンサルのお手伝いを行う。

5.そして生きてゆくためにも独立を視野に入れた活動も開始。

 

+++ここから新規執筆+++

 

でも今だから記載するけど、わがままな言い方かもしれないが大卒後、38年以上も会社勤めだったゆえ、本心はせめて60歳定年までは勤め人でいたいなぁというどうしても引けない気持ちがあったことも事実。

 

しかしながら会社を放り出された以上、そうは言ってはいられず、可能性を信じてとりあえず2020年4月から再起動したという感じ。ただ業務委託の会社では正直、何気に終始キモチがふらつき、なんとなく違うなぁと「くすぶっていた」こともこれまた事実だったかなぁ。でもそうであってもその環境で最善を尽くすことには変わりはないのだが。

 

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■2020年9月〜

さてさて、くすぶっているのであれば動かねば!ということでハナシには聞いていた55歳以上の就活にも有利とされているハローワークに顔出ししてみた。すると条件は大卒必須というだけで民間の求人サイトとはまったく違う年齢制限なしの企業や官公庁が多数求人を出していた。たまたま窓口のキャリコンがとてもよい人で相談にも乗ってくれ多くを紹介してくれた。年齢相応の再就職活動の方法や自己紹介文の書き方などをレクチャーいただきキモチも新たに多くの受検にチャレンジ!年齢は58歳から59歳になろうとしていた。年相応の再就職活動方法!これは俺にとって大きな勉強になったし、少しずつだけど今までにはなかった手応えを感じるようになってきた。それでもハローワークでの本格的再就職活動は2020年9月から2021年2月まで続いた。

 

■2020年12月〜

ハローワークでの再就職活動を始めた9月以降、東京都主催の定年後のセカンドキャリアを考えるセミナーをSNSで知ることになる。このセミナーへの参加がのちの生き方や再就職活動にも大きな影響を与えることになるのだが、条件としては54歳以上64歳までの人で、テストを受け合格者のみ参加可能というスタンス。ダメもとで受検したらめでたく合格っ!2020年12月〜2021年3月までの参加と相成った。ちなみにハローワークは若い人も高年齢者(50歳以上)の方々も転職や再就職を望むなら一度は顔を出してみることをおすすめします。

 

という状況で昨年は動いていた。前述の通り、ぶっちゃけのたうちまわっていたというのが本音かな。業務委託のお仕事も不向きではないにしろどうも歯車が合わないし、出来高制での収入もおもうように伸びないし。また独立については銀行は金を貸してくれると言うが、初めての独立にリスクは大きすぎチョイとも難しい様相を呈してきた。

 

そんな中、東京都主催の事業に参加できたことは大きな収穫だったなぁ。59歳になった年の冬、同年代の男女が退職後のセカンドキャリアをしっかりと考えよう!と集まっているのだ。これは俺にとってまさしく新しい経験だった。俺も含め参加者の方々は程度の差こそあれ定年後の人生に不安を持ち、社会とのつながりや収入面・税金のことなど多くの不安要素を抱えていた。でもセミナーをも聴講初日からハマりまくり!そしてなによりも勇気が出てきた。この歳でも再チャレンジができるんだぁ!という新しい世界が見えてきたのだ。

 

だいぶ長文になってきたので今回はこのあたりでお開きとします。次回はこのセミナーを経て俺にとってはかけがえのない方々との出会いと、その方々を経由して急速に広がった人脈、そして「60歳定年までは勤め人でいたい!」という引けないキモチが成就?失速?しちゃったかどうかを書いてゆくつもりです。次回、こうご期待!?★最後までご一読いただきありがとうございました。

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国道361号線から飛騨高山方面を望む。

 

Vol. 6 - 自分がどんな苦境に立たされても仕事が続けられる理由

ついでと言っては私の友人であるALS患者(仮称:Hさん・男性)に対して失礼になるが、前回のブログの続きになってしまうが今回はなぜ私が厳しい環境でも仕事を続けられてきたか、そして今も続けられているかということは少々、偉そうな文章になってしまうが書いてみようと思う。

 

前述の通りHさんとは前職で一緒に仕事をさせてもらった仲間だった。HさんはALSを発症し約10年。今はTLS(完全な閉塞状態)が近く、厳しい病状と闘っている。そんなHさんを見ていると大変に不謹慎ではあるがなぜか勇気をもらいガンバロウ!という気持ちになり、本当は我々がHさんに夢や希望を伝えなければならないのにいつもHさんからパワーをもらっている。そういう自分が時々なさけなくなってくるけれど、なんとなくだが前へ進もう!という気持ちで今までやってきた。

 

実はその気持ちをさらに増幅させる大きなタイミングがやってきた。2019年、日本は世界的なスポーツイベントで沸きに沸いた。そうRWC2019日本大会だ。最終的に日本チームはベスト8まで進み惜しくもベスト4は南アフリカに阻まれてしまったが、実は2019年はまぎれもなく私はRWC2019日本大会の真っただ中で仕事をしていたのだ。

 

具体的な仕事はここでは割愛するが、簡単に言うとRWC2019 日本大会の「ワールドワイドスポンサー」のお仕事を当時在籍していた会社内で私を含め数十人で担当をさせてもらった。お仕事の内容は日本全国施設でラグビーイベント実施や、インフルエンサーマーケティング、デジタルマーケティング、スポンサーのラグビーチケットキャンペーンの企画立案と実施、さらにはチケット管理やキャンペーン当選者さんの各会場ホテル管理や送迎バスの手配、リーグ戦の各会場でのホスピタリティ管理などを一手に引き受けていた。お仕事は前述の通り数十人のチームでやっていたが基本的に人が足りなかったのだろう、私が担当する部門は本来であれば3.5人でやるべき仕事をなぜか途中から私ひとりに任され実行していた。

 

それはそれはハードワークで毎日6:45に出勤し23:30に退社するという日々を約1年間つづけてきた。もちろん週末の休みなどはなく、一年間で7日しか完全休養日はなかったという状況。夏季休暇、年末年始などない、そりゃぁ体もおかしくなるけれどそれでもやり続けた。この仕事、実はキツイ現場仕事だ。しかしかっこよく言うと、多くのイベントを手掛けてきた私以外には任せられる者はいなかった、したがい頼んだぞ!という筋書きだったのかもしれない。

 

さて話を戻すが、そのようなハードワークでもやり続けられてきたのはHさんが常に私の頭の中にあったからだ。当時の回顧録的には、私はハードな仕事をやっているけどHさんと一緒に仕事をしていると思っているからこそ、やり続けられているのだと。Hさんだって仕事をバリバリとやりたいはず、でも今はALSという病気でそれもままならない。であれば私ごときで申し訳ないがHさんの分、あるいはそれ以上の事をやってみよう!と心に誓いやり続けていることを。

 

と思いながらとにかくがむしゃらに進んだ。人とは不思議なもので、がむしゃらに進み続けるといろいろと不思議な世界が見えてくることがわかった。そこで見えてきたものとは。これまた偉そうな言い分だけどHさんのために「自分の立場をすべて捨てて」何かを成し遂げようとするとき、人には限界というものが存在せず、なんでもできるし乗り越えられることがわかった。辛いとか・やりたくないとか・人のせいにするとかあるいは見返りを期待するとかそういった感情は出てこないし怖いものなんてなくなってしまった。さらに不思議と人に敬意を表し行動しようとする心が芽生えてきた。この歳になってこんな感情が持てたことと経験できたことがちょっとうれしかったかも。心が洗われたって感じが適切かもしれない。

 

2020年3月、会社都合による早期退職後、現在はとある会社で業務委託的な立場で厳しい環境に身を置いてはいるが、Hさんのことをこれまでもそしてこれからもひと時も忘れることなく進んでみようと思えばこそ、どんな環境でもどんな仕事でもできる気がしているし、現にやっている自分がそこにいる。Hさんは私にとって誇りだと思っている。そして以前に見た夢だけど、ALSで闘病中のHさんの病室に入ったらHさんがみんなに囲まれてニコニコと笑いながら上半身を起こし「Hydeeさん!俺、病気が治ったんだよ!これから歩くんだ!ほら見て!!」といって地面に足を出し立とうとしている夢。そしてこの夢は夢ではなく現実のものにしたいと強く願っているし、不治の病と言われているALS、そしてその病気と闘い続けているHさんがいるからこそ、いかなる苦境に立たされても働いて行ける私がいるような気がしている。

 

というお話。人の持つ力。人は何かのきっかけで強くなれるということ。人は前を向いて一歩ずつ進んでゆかなければならないこと。人は人を想い、人のために役に立つということを常日頃から思い行動せねばならないこと。そうすることによって自身の人生はもちろん、まわりの人々も幸せになり世の中も必ず良くなってゆく!と信じて生きてゆかねばと思ったこの2年間だったかな。これからもガンバロウ!★最後までご一読ありがとうございました。

 

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2021年、本厄の厄祓いと同時にALSの根絶を祈ってきた。東京調布の深大寺にて。

 

Vol. 5 - 健康のことではなく、病気のこと

今回は健康のことを書こうかと思ったけれど、とある病気のことについて書くことにしました。ちょっと重い内容ですが最後までご一読いただければと存じます。

 

突然ですが、ある日を境に少しずつ自分体が動かなくなってゆくとしたらみなさんはどうしますか。不安に駆られますよね。たとえば右手に力が入らないとか、腕を一定の高さまで上げると途端に力が抜けてストン!と腕が下に落ちてしまったり。はじめは多忙すぎたからかな?疲れがたまっているからなぁ最近は、と思いがち。

 

でも1~2ヶ月経っても症状は改善されず、それどころか以前より症状が進んでいるみたいだなぁと自分でも感じる。さすがにおかしいと思い病院に行く。病院でも原因不明あるいは他の病院を紹介される。最終的に行きついた病院で検査入院を強いられ多数の検査を実施。入院後2週間程度経ったころ、医師より病名が告げられる。あなたは「筋萎縮性側索硬化症」であることが限りなく疑われますと。10万人にひとりの難病で、英語名ALS(エー・エル・エス)と呼ばれ、米国で国民的人気があったメジャーリーグ選手のルー・ゲーリックがこの病気で亡くなったことから、米国ではALSのことを「ルー・ゲーリック病」と呼ばれることもあります。原因不明で現在の医学では根治ができず不治の病のひとつです。

 

医師は説明を続けます。体の運動ニューロン(運動神経)だけがなんらかの異常(原因不明)により侵されてゆく病気です。他の感覚(嗅覚・味覚・熱い・冷たい・かゆい・脳機能などは正常のまま)機能し続けます。最初は手足の不自由から始まりその後、シャツのボタンも留めたり服を着ることもできなくなったり、噛む力もなくなるので食事もできなくなり、さらに症状は足にも広がるため歩くこともできなくなります。

 

当然車椅子となり、病状が進行すると呼吸をつかさどる筋肉も侵され呼吸もままならなくなるので酸素マスクを装着せざるを得なくなります。そしてそのころにはベッドに寝たきりとなり、もちろん自分では寝返りもできずほぼ24時間完全介護となります。いずれは酸素マスクでは自発呼吸のサポートができず呼吸器の筋肉も機能しなくなり呼吸困難というか呼吸ができなくなり死に至ります。

 

その後も医師は淡々と病気の説明を行います。呼吸器不全で死に至ることを防ぐためには器官切開し、人工呼吸器を装着し「胃ろう」により栄養を補給することになります。気管切開後は自身の声を発することはできなくなるので目だけのコミュニケーションとなります。先に述べましたように、現代医学では不治の病で発病からなにもしないと平均5年程度で亡くなられるというデータもあります。また日本の法律では人工呼吸器を装着したら外すことは許されず、ずっと24時間看護で生き続けなければなりません。

 

ここまですべてを医師が一気に説明するとは思えませんが、いずれ本人はこのことを自覚し、受け入れざるを得ないのです。これは生きながら死人宣告を受けるのと同じことで、あるいは死より厳しい選択を強いられるといっても過言ではないかと思います。世界で一番残酷な病気と言われているALS(筋萎縮症側索硬化症)の病状進行と生きるための選択肢までの話とさせてもらいました。

 

そしてALSは手足や呼吸器など、体を動かすあるいは生活するための筋力をすべて奪い去ってゆきます。すべての筋力を奪っても最後に残るのが目と瞼(まぶた)の筋力です。したがいALS患者さんは最後の手段として「目の力」を使ってPC入力や文字盤による意思の伝達をしてゆくという状態まで追い込まれます。

 

この病気の残酷だと言われる由縁は前述の通り、運動ニューロンだけが侵されてゆく病気でその他の感覚はすべて生きているのです。したがい、仮に蚊が皮膚を刺してかゆくてもかくこともできず、顔にハエがとまっても払うこともできないのです。そういった神経は健全に作動しているのですから。そして最も残酷と言われている最後の症状が瞼(まぶた)を開くことができず、完全に暗黒の世界に閉じ込められてしまうという状態(TLS=完全な閉塞あるいは完全な閉じ込め状態とも言います)が必ず来ることです。自身の意思で瞼を開けることもできず閉じることもできなくなってしまいます。いままで目の力によるPC入力や文字盤使用による意思伝達はできなくなり、自身の意思はすべて伝えられなくなるという悲惨な状況が必ず来るのです。

 

なんでこんな話をするのか?実はこの話は以前、私が勤めていた会社の同僚がこの病気に侵され、発病から約10年。気管切開をして現在はTLS(完全なる閉塞状態)の一歩手前という状況にきているのです。それでも同僚は発病とほぼ同時に一般社団法人を立ち上げALSの認知と根絶を願って今でも活動しています。本人は以前「動かない体、意思を伝えられなくなってゆく体、これでも私は人と言えるのだろうか」と申されていました。その現状を知ってもらうために” I’M STILL ”というイベントを開催し、身動きできない体をモデルとして絵画を趣味としている人達に自身を描いてもらい、ALSの啓蒙活動を行ったこともあります。本人曰く「俺はさらし者になる」と言ってそれこそ体を張ったイベントでした。この文章を読んでくださった方々に対して私はALSという病気を知ってもらい一日のうち、いや一週間のうちほんの数秒でも構わないのでALS患者さんのことを思いALSが根絶してくれればと願ってもらえればという思いから書いております。

 

世の中にこんな病気があるのか!?とお思いでしょうが2014年にアイス・バケツ・チャレンジというSNSを中心としたキャンペーンが一世を風靡したことがあります。頭のてっぺんから氷水をかぶり、他の人へその行為をつなぎALSという病気を知ってもらおう!という世界的なキャンペーンでした。読者の方々の中には体験された人もいらっしゃるのではないでしょうか。あれから約7年、徐々にではあるますがALSの根本的な原因や発病のメカニズムも解明され始めたとも聞きます。

 

またALSを題材にした映画「10万分の一(劇場公開2020年11月27日)」が封切られ、白濱亜嵐さんと平祐奈さんのダブル主演でALSの残酷さを伝えています。さらに2020年にはこの病気で苦しんでいる患者さんがSNSで知り合った医師に自らを殺害してもらう依頼をしたという事件も起き、それを特集したNHK番組「患者が ”命を終えたい” と言ったとき」が2020年12月26日に放送されました。少しずつですが難病ALSを知ってもらおうとメディアや映画業界でも動き始めたということを伝えさせていただきました。

 

最後になりますが、ALSを広く知ってもらうために毎年夏至の日を「世界ALSデー」とし、様々なイベントが世界中で行われます。近年、世界中で行われているのが「GORON(ゴロン)」です。ALSで動かなくなった体を自身が体験する行為で「ゴロンと地べたに寝っ転がり」そのまま5分間、なにがあっても動かないということを行います。手軽と言っては語弊がありますが、どこでも一人でも、いつでもできるGORONをみなさまも体験してみてはいかがでしょうか。

 

一秒でも早くこの世界一残酷と言われる病気=ALSから患者さんたちが解き放たれる日を願ってやみません。本当はもっと多くのことを書きたいのですが本日はこのあたりで終わりとし、続きはまたの機会とさせていただきます。最後までご一読いただきありがとうございました。

 

自分も含めみなさんにもう一度、お聞きします。ある日突然、自分の体が動かなくなりはじめたらどうしますか、そしてどう思いますか。。。★最後までご一読ありがとうございました。

 

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2014年に行われたアイス・バケツ・チャレンジでのひとコマ。



Vol. 4 - 久しぶりの投稿です - 定年退職って

当ブログをご一読されたみなさま、2020年4月からはじめたブログですが3回目以降の更新がまったくできておらず、大変にご迷惑ならびに不快感を抱かせてしまったことお詫びします。2021年、気持ちも新たに再起動とさせていただければと存じます。日常のこと、仕事のこと、趣味のことなどを書き続けてゆくつもりです。今後ともよろしくお願いいたします。今日は2021年1月2日です、早速再起動の第一回目として書かせていただきます。

 

前回までは私が会社を辞めた理由とその時の気持ちを徒然に記載させていただきました。この回からは趣味のことを書くつもりだったのですが、チョイと気が変わりまして会社を退職~再就職活動をしているときに就活と同時に独立・起業をやってみる意思も同時にあったので55歳以降の方々、あるいは若い方々も参考になるかもしれないことを書いてみようと思います。ずばり55歳以降、定年を意識しはじめ60歳を迎えた時にどうするか!?というテーマです。前回のVol.3でも少し触れさせていただきましたがその続きと思っていただければ。

 

でもこの話を進める前に私の趣味をせっかくなのでひとことだけ記載させていただき、それらの詳細はいつの日かブログ上で公表してゆきたいと思っております。私の趣味はひとことでいうと「スピード」です。具体的にはスキーとモーターサイクルです。共に体で風を受けて爽快感を求めるという趣味は私にとっては何物にも代えがたく、これらをジジイになってからも(もうジジイですが)続けてゆこうと思っています。そのために体調管理と体力づくり・筋力づくりは怠らずやっております。と言っても今年は60歳になります、したがいまして年齢相応の運動ですけどね。この趣味の延長が生活スタイルにも反映、そしてもしかしたら起業できるんじゃね?ナドナド、なかなか面白い展開だったりします。これらのハナシも次回以降とさせていただきます。

 

さて前置きが長くなりましたが、定年を前にしたオッサンはどうするか、ということですが、サラリーマンは国が定める「高年齢者雇用安定法」たるものが存在し、60歳定年後も65歳までは雇用を続けなければならないという法律があり、人生100年時代といわれさらに改正・高年齢者雇用安定法では企業は70歳までの雇用を検討しなければならない(義務ではない)ということになっているらしいです。

 

したがい65歳までは雇ってもらえるからいいや、65歳になったら年金ももらえるしなんとかなるだろうと漠然と思っている方々が多いのではないでしょうか。しかし本当にそうなのでしょうか。私のように58歳で会社都合による早期退職制度にて退職をした者にとってはそんな呑気なことは言ってはいられません。退職金や会社都合退職による特別加算金、貯金や投資などによる現金はあったとしても、サラリーマンとしての看板は背負えずたった一人で勝負にでなければなりません。現在、働かせてもらっているところも基本的には「業務委託契約」に近い形なので、収入がある月とない月の差もありますし不安感満載です。そんなとき就活をしながら漠然と考えていた独立・起業も同時に真剣に考え始めたのです。

 

話が飛びますが私の知人も60歳以降、再雇用をされましたが今までの身分や立場は身ぐるみはがされ実年齢は60歳以上、でも雇用条件は新卒社員と同じ、あるいはそれ以下となってしまった人たちがいました。再雇用とは現時点ではそれが普通なのです。でも会社も悪気があってそうしているのではないのです。60歳以降の雇用は国で定められているにしても企業側としては60歳以降の方々の雇用については正直「暗中模索」なのです。彼らは結局のところ今までの立場と今後の立場を自身の中で消化できず困ってしまっていたというのが現実でした。そして2020年、世界を襲ったコロナ禍によりあえなく契約打ち切り=無職となってしまったのです。その後どうしたかはわかりません、雇われる立場からいきなり放り出されたわけですからね。したがい私は今後、60歳を超えて65歳近くになってどうしたらいいいかわからないぃぃぃ、というスタンスにはなりたくない!という気持ちがあったので少し遅いかもしれませんが57-58歳くらいからでしたでしょうか、漠然と独立・起業を意識し始めました。

 

でも自分は何ができるのだろうか。サラリーマンを30年以上やったって、たいしたこともできないしなぁと思っていたのですが、とはいえ日頃から「自身が一番強いモノはなにか=そうそう人には負けないモノってナンダ?」そして「それを武器として仕事に活かせるのか」ということはいつも考えていました。そしてなんと!それを証明する世界的にも有名なとある「診断テスト」をひょんなきっかけで受けることができたのです。結果の説明を聞き、まさに目からウロコ!とはこのことでした。自分が漠然と思っていた強みと弱みが客観的視点をもって証明され可視化されたのです。平たく言えばキャリアの棚卸ってやつですかね。そうだったんだぁ!やっぱりなぁ!という納得と「よぉ~し!これなら仮に独立・起業しても強みが弱みを補完しながらやってゆけるかも!」と思い始めました。

 

そう思えば不安はあるものの何か背中を押された気がして、現職をやりながらも同時並行は可能だな!とある程度の確信に変わってきました。じゃぁ俺が前から考えていたこと(3つほどあるのですが)を企画書にしてみよう、そして知人のコンサルタントや友達など利害関係のない人達に聞いてみよう!と思い、企画書を一気に書き上げました。その内容を知人のコンサルタントはその中のひとつについて「これイケますね、あとは競合がどれだけあるのか、ターゲットをどう設定するのかだけですね」とのご意見。つまりレッドオーシャンではなくブルーオーシャンに近いところで勝負ができそうな気配を感じました。

 

今後はPL, BS, 初期投資も含めた事業計画書(書いたことないけど)を作り独立・起業かな?という手ごたえ的なものを得ました。はじめはもちろん!ひとりで独立・起業です、人なんか雇える規模じゃぁありません。仲間が必要な時は業務委託で集めてゆきます。それまでの期間は現職をやりながら&小銭を得ながら準備に取りかかろうかなと考えています。準備期間は1年、つまり最短で2022年にはうまくいけば独立・起業できるかも!?という状況です、まぁどうなるかわかりませんけどね。でもこれができれば65歳以降、多くの人が再雇用という立場が終了し、この先どないすんねん???と思い始める時には年金をもらいながら少しくらいは自分の力で稼げるかな?という目論見です。甘いっ!とおっしゃられる方々も多いかと存じますが、みなさんは60歳あるいは65歳以降のご自身の人生をどう考えていらっしゃいますか。そして若い世代の方々もまだ先のコトなんて思わず、確実なこととしては貯金から始めるのもよいかと思います。仮に毎月数万円×25年で計算しても結構なお金が貯まりますよ。

 

ということで今回は抽象的なお話になってしまったかもしれませんが、かなりバカな私でも少しは考えチューということでございます。次回内容は未定ですが、健康のことでも書こうかなと思っております。★最後までご一読ありがとうございました。

 

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2021年 元旦「世田谷区 大蔵総合運動公園」にて

 Vol. 5 健康に続く。もしかしたら別の話題かも。